小笠原氏の歴史 加賀美氏、小笠原氏

小笠原氏の歴史 加賀美氏、小笠原氏

小笠原氏は、甲斐源氏の流れをくむ氏族であり、その発祥の地は、甲斐国、現在の山梨県です。

加賀美氏、小笠原氏のはじまり


 加賀美遠光と長清 

源清光の三男 加賀美遠光は、加賀美(南アルプス市)の地を本拠とし、遠光自身の近くに子供達を配します。

長男光朝(秋山太郎)は、秋山(南アルプス市)を本拠に、
次男長清(加賀美二郎 1162年生~)は、小笠原(南アルプス市)を本拠に、
三男光行(南部三郎)は、南部(南部町:山梨県南西部に位置)を本拠にします。
自らの子を加賀美(南アルプス市)の近くに配し、甲斐国の西南部を勢力範囲とします。

遠光は、中央志向があったようです。それゆえ、 長清は、元服以降に兄光朝とともに京に上洛し、平知盛に出仕していました。

平安末期の治承4年4月(1180年)、後白河天皇の第三皇子 以仁王(もちひとおう)は、平家討伐の令旨(りょうじ)を諸国源氏に下しました。この令旨を旗印とし諸国源氏が挙兵、また反平氏勢力も加わり全国的な内乱に広がります。(治承・寿永の乱 1180年~1185年)

この乱は、平氏政権から鎌倉幕府政権への変動期であり、諸国の武士に大きく影響します。

甲斐源氏の加賀美氏にとって、この令旨が、大きな転換期になった事を覗えます。
長清は、この令旨に直ぐに対応しますが、ようやくのことで平知盛の許可を得て甲斐国へ下向します。

甲斐源氏の武田氏、安田氏は、挙兵し、富士川の戦い(1180年)で勝利、駿河と遠江を制圧し勢力を広げます。
また清和源氏の嫡流である源頼朝も挙兵し、富士川の戦い後、鎌倉に戻り、自らの政権の基礎固めに着手します。

この時期、加賀美氏に目立った活動はありません。
しかし、遠光は、京の情勢に詳しい長清を通じて頼朝へ近づきます。
長清は、鎌倉に出仕し、頼朝との関係を築き、加賀美氏の基盤を固めていきます。

加賀美遠光・長清父子ともに鎌倉幕府の創建に活躍し、源頼朝の信任を受け、甲斐源氏の中でも一大氏族になっていきます。

父遠光は、頼朝の推挙により1185年信濃国守護に任じられます。また長清は、佐久伴野荘の地頭となり信濃に本拠を移します。

古文書により遠光・長清父子が、源頼朝の行事に多く関わっていたことを覗えます。

< 古文書 (抜粋メモ) >

〇治承4年12月(1180)鎌倉への転居 「吾妻鏡」
頼朝が鎌倉の大倉新亭へ転居する際の移転の儀式に加賀美次郎長清が随行しています。

〇治承4年12月(1180)頼朝へ推薦 「吾妻鏡」
長清は、京より下向してきた橘公長父子を御家人として頼朝に推薦し許されています。
(橘公長父子は、長清とともに京にて平知盛に仕えていました)

〇養和元年2月(1181)頼朝の仲介 「吾妻鏡」
頼朝の仲介により加賀美次郎長清は、上総介広常の娘を妻にしています。

〇文治元年01月(1185)頼朝から範頼への手紙 「吾妻鏡」
平家討伐の弟範頼に対する指示と、範頼配下の甲斐源氏に対し 目をかけるように、さらに「・・・ただ二郎殿(長清)をいとおしくて、是をはぐくみ候べきなり」と長清を特に目をかけるよう手紙に書いています。

〇文治元年10月(1185)供養 「吾妻鏡」
長勝寿院落慶供養に加賀美二郎長清が随行しています。

〇文治3年8月(1187)放生会 「吾妻鏡」
鶴岡八幡宮 放生会に加賀美遠光が随行しています。

〇文治4年9月(1188)大弐局の登用 「吾妻鏡」
遠光は、娘を万寿(頼家)の養育係りとして出仕させ、娘が頼朝に対面し、大弐局の名を与えられています。

※他に供養、放生会、参詣など遠光、長清の登場する記録が多数あります。

※吾妻鏡とは、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されています。



 小笠原氏と弓馬術 

平安・鎌倉時代の武者には、弓術が優れていることが求められ、 また、当時の戦は、騎射が中心戦力のため、特に馬術・騎射技術の向上が求められていました。

この騎射技術の向上が、各氏族(一族)の生き残り・氏族の発展に繋がる方策で、各氏族毎にその訓練方法が作られます。

鎌倉時代において弓馬術・騎射技術は、戦だけではなく、犬追物、笠懸、流鏑馬などの射芸が鎌倉幕府の行事として、弓始、社寺への奉納などに取り入れられました。

甲斐源氏の武田氏、小笠原氏は、ともに弓馬術・騎射技術を向上させ鎌倉幕府に大きく関わります。

古文書に、鎌倉時代の射芸・行事に登場する甲斐源氏の記録が多数あります。

< 古文書 (抜粋メモ) >


〇文治5年1月(1189)弓始 「御的日記」
弓始は、鎌倉幕府の年中行事の一つ。小笠原二郎長清が参加しています。

〇建久4年3月(1193)狩猟 「吾妻鏡」
弓馬の上手な22人が選ばれ、その中に武田五郎(信光)、加賀美二郎(長清)の甲斐源氏二人がいます。

○建久4年8月(1193) 流鏑馬 「吾妻鏡」
鶴岡八幡宮流鏑馬の射手に小笠原二郎(長清)、武田五郎(信光)の甲斐源氏が参加しています。

○建久5年10月(1194)射芸についての評議 「吾妻鏡」
頼朝が、射芸に優れた東国武士(18人)に射芸の仕方について意見を述べさせ、その中に武田有義と小笠原長清の甲斐源氏がいます。上洛を前に住吉社へ流鏑馬を奉納する際、各武士(氏族)毎に射芸法の違いがあり、その統一調整のようです。

※他に加賀美氏・小笠原氏が登場する記録が多数あります。

※吾妻鏡とは、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されています。



吾妻鏡などに長清をはじめ多くの加賀美氏・小笠原氏が登場し、弓馬術に優れ鎌倉幕府と密接な関係を持っていったことが窺えます。

また鎌倉幕府の射芸の行事化などにより小笠原氏の弓術、馬術、騎射技術の向上により「小笠原流 弓馬術」が形成されていきました。



 小笠原氏の始祖 

室町時代になると儀式・典礼など武家の礼法も加わり、「小笠原流 弓馬礼法」とし受け継がれ、現代でも「小笠原氏」と「小笠原流」の名は、世に知られる存在になりました。

この小笠原氏、小笠原流の基礎を築いたのが遠光の次男 加賀美二郎長清、のちの小笠原長清です。長清が、小笠原姓を名乗り始めたのは、元暦元年(1184年)です。

加賀美二郎長清(小笠原長清)は、小笠原(南アルプス市)を本拠とし、その在地名を小笠原姓としています。その小笠原の地、山梨県南アルプス市(旧櫛形町)には、小笠原長清公を祀った祠堂があります。

小笠原長清公祠堂
山梨県南アルプス市 小笠原付近


小笠原氏の家紋 三階菱


上野氏 と 甲斐国

小笠原長清は、清和源氏の流れをくむ源義光(新羅三郎義光)を祖とする甲斐源氏です。



長清の孫 上野六郎盛長(小笠原六郎)が鎌倉時代に築城したとされる城が、上野(現南アルプス市)にあります。
城の名前は、「上野城」、付近に山茶花が多く、「椿城」とも呼ばれています。

この上野氏の末裔が、当小笠原流流鏑馬の宗家 源長統(上野公逸)です。

上野城址(椿城)
山梨県南アルプス市 上野


上野家の家紋は、「笹竜胆」(ささりんどう)です。
源氏の氏族に使用されている代表的な家紋です。

上野家の家紋 「笹竜胆」